委員会活動

【14.07.25】7月県例会

能登での歩みと将来に向けた経営戦略

  報告者 ㈱スギヨ 代表取締役社長 杉野 哲也 会員

七月二十五日(金)和倉温泉・加賀屋で県例会が開催され、株式会社スギヨ代表取締役社長・杉野哲也会員が「能登」から世界へ発信~能登での歩みと将来へ向けた経営戦略~と題して報告した。
 八十名が参加して学び合い四十名が懇親会に参加、十九名が宿泊して親交を深めた。
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■藻の発達と鮮魚・加工品
 当社は現在、国内十一ヵ所、アメリカに一ヶ所の工場を持ち、九拠点の支店・営業所を以って製造・販売を展開している。
 能登半島は、穏やかな内浦には鮮度の良い魚が育まれ定置網漁業が発達した。荒れた外浦では海に出れない期間があるので加工する手法が発達し、生鮮品と加工品という違う食文化が培われていった。これは日本全体の縮図とも言える。また、藻が生えている場所=藻場が発達し、海藻類が豊富で平成十四年(二〇〇二年)の調査では日本全体の藻場の七.三%を能登半島が占めていることが明らかにされている。海藻の種類が多く能登の海は食の宝庫である。能登の里山は国内初の世界農業遺産に認定された。海と山の物が揃う場所だ。
■塩を詰め木箱で送る  
寛永十七年、徳川家光の時代にさかのぼり、杉野屋与作の名前を襲名していた。明治初年、杉野作太郎は魚を加工して練り物を作ることに成功した。明治四十年、炭火に灰を撒きながら温度をコントロールして魚を焼き「ちくわ」を生産した。作太郎の次の次が私になる。
 一九二三年(大正十二年)アブラツノ鮫が獲れ、その肉を使いながら「ちくわ」を焼き始めた。長野県へ魚を送るのに木箱で対応していたが、 ス(ヤマス)のちくわは日持ちが良いと評判だった。乾燥させた木箱を使うので腐敗しない。十月から三月が販売時期で、ちくわの中に塩を詰めて送った。塩は調味料として使える貴重品であり喜ばれる。
 ■ちくわで開発型企業へ
 大正から昭和に掛け焼きちくわ製造を中心に事業を拡大した。戦後の食糧難の時期に二代目・杉野作太郎は栄養補助食品としてアブラツノ鮫から肝油を採り、理研ビタミン七尾支店を通して販売した。
焼きちくわ「ビタミンちくわ」は厚生省から特別栄養食品として認定されロングセラーとして六十年続く。
 能登の企業が他社に打ち勝っていくには、都心部から遠く時間やコストで負けるというハンディキャップがあった。
 従って、新しい物を造り付加価値の高いもので開発型企業として競争しないニッチマーケットを開拓していった。
■かにあし蒲鉾を発想
 一九七〇年(昭和四十五年)、中国からクラゲが入らなくなって、中華料理の前菜に利用するため同じような物を作れないか、スギヨに依頼があった。そこで海藻から抽出したアルギン酸から寒天のような半透明の物を作ったが醤油に浸すと溶けクラゲの代用品としては無理であった。しかし、口に入れてみると蟹に近い触感であることに気づいた。能登の食文化の中で育ったからこそ気づいた事だろう。ここからカニ蒲鉾を作る発想が生まれた。半透明なので牛乳を入れ白くし、すり身にした物を棒状にし、赤い色を塗って土産品として売り出したのが一九七二年(昭和四十七年)だ。
■場外問屋から爆発的売行き
 しかし、アルカリ処理などで生産性が悪く、蒲鉾で作れないか研究した。弾力が出る座り現象という状態があるが、どの温度で、どの位の時間延ばした時に、どういうカットをすると蟹に近い触感を有する物になるか、研究を重ねカニ蒲鉾の繊維と同じ形態に蒲鉾を刻み、フレーク状の物を築地市場へ持って行くと「こんな蒲鉾を刻んだもの売れるか?」と言われ、場外問屋へ持ち込んだ。すると爆発的に売れ出し、とたんに築地市場からも注文が来る結果となった。
■卵豆腐も蟹かまセット売り
 この頃、卵豆腐も製造した。これはサルモネラ菌の発生を抑えながら作った。ところが売れず、カ
ニカマとセットにし、卵豆腐を買ってくれたらカニカマを付けるという売り方をした。そうして卵豆腐も売れるようになった。
■全米へ拡げる戦略へ
 カニカマは国際商品になると判断し、昭和五十年からアメリカの商社を百三十社位の中から一社選
び、その会社を通して全米へ販売することを狙った。まず、テストマーケティングとしてユナイテッドエアラインの機内食で販売した。多い人口、つまり白人に売る計画だ。選択率が良く廃棄率が少なかった。そこで本格的に全米へ拡げる戦略に出た。しかし、ステーキにシーフードを付ける習慣は基本にあるのだが、一定数量以上は売れなかった。そして禁漁が入り、ホワイトレボリューション(白色革命)が起きた。赤い肉から白い肉へ替える健康ブームが起きた。環境が変わると条件も変化してくる。
■アメリカ進出
 二〇フィートコンテナと四〇フィートコンテナがあるが、昭和五十二年から責任者になり、四〇フィート(一八~二〇t)を一年に三百六十五個売りたいと夢見て励んだ。
 昭和五十八年に四〇フィートコンテナが一ヶ月で六〇本売れた。日本からの輸出品で一番売れた。中国・韓国商品は凄く安い価格で出回った。当方はカニカマの中にマヨネーズを入れセロリを細かく刻んで山葵を擂って入れ量り売りした。昭和五十八年にヒットした。しかし、昭和六十年のプラザ合意で急速な円高が起きた。①値上げか、②撤退か、私は③進出すべきと主張した。
 すると、お前がやれ、とアメリカに工場を造ることになった。顧客が居てマーケットがある東海岸にするか、原材料が採れる西海岸にするか、人が穏やかで備品も含めて輸入し易い西海岸を選んだ。ワシントン州に決めた。水があり暑くなく風景が七尾と似ているスカジット郡に工場建設を始めた。
■工場建設
 昭和六十一年九月に着工し、九ヶ月間という短納期で六十二年五月には出荷できた。千代田化工建設のプロジェクトリーダーの指揮で、土日は働かない習慣のアメリカ人に働いてもらい、現地が雨季の中、仲間の協力で短納期が実現した。
■鮮魚コーナーで売行き上昇
 空いた輸出工場の活用を考え研究開発を進め、蟹を超える商品を作ろうとロイヤルカリブの製造ラインを造った。末端小売が三倍位の商品だが、これは練り製品コーナーに置いても売れず、鮮魚コーナーに置いてみた。すると高く売れ始めた。アメリカのスーパーマーケットにも出荷した。火を使ったメイン料理が出るまでの間に食べる物として好評を得ている。新商品は足元にある。売場を変え、形を変え、売り方を変えることで新商品になってしまう。自社の得意分野を追求する事だ。
■天皇杯は従業員のプライドに
 香り箱で天皇杯を取った。十万点から一点選ばれる。従業員が「世界一の物を作っている」というプライドを持てた。一人前の商材に成れた証だ。
■人間関係を密に農業参入
 三一一や南海トラフの問題では北陸は見直されている。
 良いものを適切な場所で作り、適切な所に売る、地域でお金が廻る仕組みを形成していきたい。世界人口は七十一億六千万人、十七億tの穀物を作っている。食品企業は一次産業と関わりをもつことが求められ、農業参入の考え方の原点だ。
 農業に携わる社員は約四十名いる。石川県の放棄地の七割が能登、そこにエコ栽培(農薬は三分の一)の取組み、一部では有機栽培をしている。現在六十二ha栽培の見込みで、将来的には百haを耕して行く。
 パートナーシップを組み商品開発に邁進していきたい。今までの常識・ビジネスモデルでは立ちいかなくなり、地方・地域間競争の時代となる。

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