【13.07.01】がんばる企業家(2)
姥浦建設㈱代表取締役 姥浦 博史
能登半島地震で自ら課した経営理念に挑戦
姥浦建設は、1958年に私の父が個人創業し、法人化は76年。私が単独で代表取締役になったのは、30歳の時です。
石川県中小企業家同友会に入ったのは91年で、40歳でした。能登ブロック(現能登支部)ができたのもその年で、入会したばかりの私が、先輩会員の鶴の一声で初代の能登ブロック長に就きました。
同友会に入る前の30代の頃は、経済団体をお坊ちゃん達の集まりと毛嫌いしていました。能登ブロックの設立準備例会のチラシがたまたま私の手元に届き、講演者が建築・土木・測量のソフトウェアを手がけていた福井コンピュータの小林眞社長だったものですから、聞きに行ったんです。講演の内容が印象的だった上に、そのあとに行われたテーブル討論に圧倒されました。会員が侃々諤々の議論を交わす様に、「これは自分も勉強しないといけない」と痛感しました。
同友会で学んだことは数々ありますが、会社にフィードバックした代表的なものとして、経営理念があります。同友会の「経営理念講座」で学んだことが原型になっており、実は模造紙に書き上げた文面を一年ほど寝かせていました。現実とのギャップがあって、社員に公表するのをためらっていたのですが、「恥ずかしいくらいが丁度いい」という講師の言葉を思い出し、2002年に思い切って社内に掲げました。
シンガポールの初代首相であるリー・クアンユーが創案した建国の理念を新聞で目にし、自分の考えた経営理念と内容が似ていたのも自信になりました。
そして、07年3月の能登半島地震の直後ほど、経営理念に自分で記した「社会に貢献することを目指します」を意識した時期はありません。
能登有料道路で11カ所の崩落があり、これを5月の大型連休前までに復旧させると谷本知事が明言しました。うちは2カ所の現場を担当することになり、そこからは24時間・3交代の必死の工事が続きました。社員全員が使命感に駆られ、私もずっと陣頭指揮に立ちました。
おかげさまで無事、工事をやり遂げることはできましたが、無理がたたったのか、その年の6月に私は心筋梗塞で倒れ、さらに胃癌も見つかって、翌年、手術を受けました。
07年から08年にかけては、いわば試練の連続でした。幸い、今は健康も回復し、二十数年ぶりの再登板となりますが、今年は再び、能登支部長を務めることになりました。理想とする会社のイメージに少しでも近付けるよう、企業経営と同友会活動にこれからも精勤していきたいと思っています。